兄・糸魚川行吉が語る

兄・糸魚川行吉が語る

祖父、そして父から受け継いだ木への思い

共和木材は昭和22年(1947)に製材会社としてスタートを切りました。その時に専務として会社設立に関っていたのが、私たちの祖父です。

岐阜から長野にかけて木曽川を中心に続く木曾谷は、昔から材木が豊富なところ。私たちの会社がある中津川坂下は、その木曾谷の玄関口として数多くの良材が集まる一大集散地でした。祖父たちは自然の恩恵を受けながら、着実に業績を上げていったのです。

やがて祖父のあとを受け継いだ父が社長になりました。私は大学を卒業後、名古屋や東京の材木問屋で4年間修業し、共和に戻りました。ところがわずか1年ほど一緒に仕事をしただけで父が亡くなってしまったのです。享年56歳。その時私は28歳でした。

  代々受け継いだ木への思い

  

国産材を使った家づくりを進めたい

製材という仕事はギャンブルだとよく言われます。良い木を見分ける目がないと、当然ながら良い材はとれず、大損をしてしまうことがあるからです。ですから私は木を見る目だけは鍛えてきたつもり。その自負が父亡き後も自分を支えてくれたと思っています。

それにしても私が製材業を継いだ頃と比べると、坂下町の製材業者はめっきり減ってしまいました。安価な外材に押されて国産材が売れないこともありますし、いい木を使って家を建てようとする人が減っていることも原因のひとつです。

そこで昭和60年(1985)、私は共和木材の中に建築部を設けることにしました。産地直送の木を使って、木の香も清々しい家をつくり、日本の素晴らしい木の文化を存続させるためのささやかな力になりたいと思ったのです。

幸い建築会社で働いていた弟・豊実が、私の決意を聞いて帰ってきてくれました。弟が建築部の責任者となり、私は共和の家に使う木材を厳しく選び抜く役目を担うことにしました。長年製材に関ってきた私たちは、建築をもう一つの柱とすることで、木の家の素晴らしさをより多くの人びとと共有していきたいと願っています。 

 

国産材を使った家づくり

国産材を使った家づくり

 

木から受けた恩、ふるさとへの愛着

中津川周辺の特産・東濃檜は、私が惚れこんでいる木のひとつです。木肌の滑らかさ、艶、色、香り。どれを取っても一級品です。強さと気品を兼ね備えたこの檜で建てた家に住む喜びは格別のもの。『よくぞ日本に生まれけり』という感慨を深めてくれます。

木を扱う仕事を守りたくてスタートさせた建築部でしたが、産地直送の木で建てる共和の家に共感してくださるお客様も多く、いまでは共和木材の根幹を担う部署に成長しました。

私が常に自分自身に言い聞かせてきたのは『本業を続けるな。本業を外れるな』という言葉。自分に即して言えば、「製材業だけに固執するな。かと言って全く違う仕事には手を出すな」という意味だと受けとめています。

改革を恐れてはいけない、しかしそれはあくまでも地に足のついたものでなくてはならない。これからの共和を担う若い人たちにもかみしめてほしい言葉です。

そしてもうひとつ大切なのは"地域のために"という気持ち。私たちを培ってきたのは紛れもなくこのふるさとですし、ふるさとは森の恩恵なしでは成り立たない土地柄。森に育てられてきた工務店として、私たちはこれからも地道に着実に、木の文化の素晴らしさを伝えていきたいと思っています。

 

弟・糸魚川豊実が語る

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糸魚川行吉